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<目次> 1.佐賀の歴史について
2.今山の合戦と男女神社
1.佐賀の歴史について(参考ページ)
皆様、佐賀の歴史について一番に何が浮かばれますか?普通に考えたら、佐賀七賢人(枝吉神陽を含め八賢人)だと思いますが、佐賀にはそれ以前に、今山の合戦(陣)という素晴らしい歴史があります。
佐賀の伝統芸能である佐賀面浮流は、皆様も良く知られるところと思いますが、それがこの今山の合戦にもとづくものと伝えられています。(参考ページ)
今山の合戦とは、戦国時代の鍋島直茂候(佐賀藩祖)が豊後の大友宗麟の大軍勢に対し、奇襲戦法で大勝利をおさめた戦いです。
今山とは地名のことで、現在の佐賀市大和町大字久留間の山からふもと付近で、字(あざ)今山が今でも地名に残っていて、男女神社も字今山となります。
2.今山の合戦と男女神社
今山の合戦(陣)とは、戦国時代、豊後の国(大分県)の大名大友宗麟(そうりん)と、肥前の国(佐賀県)の大名龍造寺隆信(たかのぶ)との合戦で、龍造寺の家老の鍋島直茂(なおしげ)侯(後の佐賀藩祖)が、この今山の地(現在の佐賀市大和町大字久留間字今山)で、大友8万(6万~10万の説あり)の大軍に僅か7百(5百~7百の説あり)の兵で奇襲し、総大将大友親貞(ちかさだ:宗麟の弟、又は甥)を討ち取った戦いである。
当時この今山は仏教繁栄の霊地として栄え、男女神社は、東の谷に講堂棟、西の谷に楼門を持つ大社であり、光明寺(男女神社南東約八〇〇メートルに位置し、今は廃寺)の座主(最高位の僧侶)が、男女神社の神座を勤めていた。しかし、この戦いの日に戦火に焼かれ、宝物・古文書等は全て焼失する。
元亀元年(1570)大友8万の大軍に包囲された佐賀城は、5千の兵力しか無く、軍評定で篭城や降伏論が飛び交う中、鍋島直茂は奇襲(夜襲)を進言、無謀だと否定的だった龍造寺隆信も、母の慶誾尼(けいぎんに)の激で奇襲を決行する事となる。
大友軍本陣は男女神社東の赤坂山中腹に布陣し、8月20日(陽暦9月19日)を佐賀城総攻撃と定め、その前日に勝利の前祝いの酒宴を開いた。
酒宴の情報を知った鍋島直茂は、午後6時頃、佐賀城を僅か17騎で出発したが、近隣の武将達も次々に駆け付け、今山に着く頃には7百余りの兵になり、地元の山伏達の協力を得、男女神社の西側から谷伝いに山を登り、密かに大友軍の背後、赤坂山裏側(ここには2百~3百の兵を布陣)に潜伏する。
明朝七時頃、男女神社北東の大松(鐘かけ松:昭和三〇年頃迄存在、鐘は現在鍋島の新庄八幡宮から運んだ伝えられる)に掛けた鐘の合図で、「寝返った者が出た」と虚報を流し、一斉に奇襲を敢行、武具も付けず油断していた大友勢は大混乱に陥り、同士討ちを始めた軍中で、総大将親貞主従三人は何とか混乱を脱したが、山伝いに逃れるところを、首を挙げらてしまう。総大将を討たれた大友軍は一瞬にして烏合の衆と化し、2千余の兵を討たれて潰走、奇襲は大成功に終わった。
その時、鍋島勢は各々鬼面を冠り、鐘、太鼓を打ち鳴らして奇襲をかけたと伝えられ、佐賀の郷土芸能の面浮流として現在も残っている。
男女神社は、承応三年(1654)佐賀初代藩主鍋島勝茂侯・小城藩祖鍋島元茂侯の出資で再建、また鍋島元茂は、古戦場跡に正勝寺(字横馬場に現存)を建立する。
大正15年(1926)佐賀で陸軍特別大演習が行われ、御前講和で今山の合戦の講和がなされ、昭和6年(1931)陸軍大学参謀演習にて、秩父宮雍仁親王殿下が、今山の合戦ご研究のためこの地に立たれ、前方の小円古墳の上に記念碑が建てられている
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