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創建は不明ですが、約800年前(鎌倉時代)と推定され、正空上人(しょうくうしょうにん)が男女神社南東約1キロのところに光明寺を建立し、光明寺の座主(最高位の和尚)が代々男女神社の神座を勤めていた事が、古い文献に記されています。
当時は東に講堂棟、西の谷に楼門(神社の門)があって、男女神社は大社であり、近くには、竪馬場・横馬場の地名が現在も残っており、当時の盛大さが伺えます。
元亀元年(1570)今山の戦い(龍造寺氏と大友氏の戦い)に於いて、建物・宝物・古文書等は全て焼失しました。(今山の戦いは歴史で詳しく説明しています)
承応3年(1654)佐賀初代藩主鍋島勝茂公・小城藩祖鍋島元茂公の出資で再建されました。
大正15年(1929)、陸軍特別大演習の御前講和(皇室に行う講和)で、今山の戦いの講和(県立図書館所蔵)が行われ、昭和6年(1931)陸軍大学特別演習に於いて、秩父宮雍人親王殿下が、今山の戦いのご研究の為男女神社に来られ、小円古墳の上に記念碑が立てられています。
地元では、秩父宮雍人親王殿下は、馬に乗られて髭を生やされていて「男女神社は何処だ?」と尋ねられられた話や、丁度田んぼの草取りをしていた時にお通りになられ、「お通りになられると知っていたら、草を道に上げたりしなかったのに、すみませんでした。」と、秩父宮様に話しかけられた話も残っています。 |
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